水素原子モデルのエネルギー固有値問題は多くの教科書で取り上げられる定番のトピックです。
よくある説明として、原子内の電子は特定のエネルギー固有状態から別の固有状態に遷移するときに、そのエネルギー差に応じた周波数の光を放出する、というものがあります。
エネルギーを失った分だけ光を放出するというのは直感的にはイメージしやすいですが、なぜ電子はエネルギー固有状態を特別視して状態間の離散的な遷移という挙動をするのでしょうか?
シュレディンガー方程式に従っているならば、状態の変化は連続的であるはずで、遷移などという現象は起こらないはずです。
ということは、もう一つの可能性である観測による離散的な状態変化が絡んでいそうな現象だと勘ぐりたくなります。
そこで本記事では、水素原子モデルの自然放出の量子測定理論を展開します。
と言っても正確なモデルで複雑な計算をしても理解にはつながらないと思われるので、説明のために最小限のモデルを採用します。
実験全体のハミルトニアン
まずは実験の設定をします。
この実験に必要なのは、水素原子モデルで記述できる原子と光子と光子を検出する測定器です。
簡単のために測定器は系に含めず、原子+光子の系を採用します。
この設定で、原子と光子を相互作用させた後、系全体の量子状態に対して光子の測定を行う、という流れで実験を実施します。
すると、この設定において光子は原子状態を測定するための測定装置の一部と捉えることができます。
全ハミルトニアンは
のように3つの部分に分けて書くことができます。
1項目から水素原子モデル、光子のエネルギー、その間の相互作用となっています。
測定モデルの設定
原子が励起状態 \(|e\rangle\) にあり、光場が真空 \(|0\rangle\) から出発するとします。
このとき合成系の初期状態を
と書くことにします。
時間 \(T\) だけ全系を時間発展させた後の状態を
と書きます。
さらに、「周波数 \(\omega\) の光子が1個ある」という状態を\(|1_\omega\rangle\)とします。
すると、今回の光子を検出する測定を記述するPOVMは\(\Pi_\omega:=|1_\omega\rangle\langle1_\omega|\)を用いて、
と書けます。(原子側には何もしないので恒等演算子になっています。)
このPOVMを用いて、周波数\(\omega\)の光子が検出される確率は
と計算できます。
繰り返しになりますが、この式は原子のエネルギーを直接測る確率ではなく、
原子がエネルギーとして放出した光子を検出する確率を表しています。
2準位系の最小モデル
ここから最小模型を作ります。
原子の二つの固有状態だけを取り出し、
とします。
周波数 \(\omega\) の光子を検出する過程は、以下の二つの状態で張られる部分空間で計算できます。
前者は、原子が励起状態にあり、光子がまだ出ていない状態です。
後者は、原子が基底状態に落ち、その分のエネルギーが周波数 \(\omega\) の光子として出た状態です。
この二状態部分空間で、先ほどの全ハミルトニアン \(H=H_{\rm atom}+H_{\rm field}+H_{\rm int}\) の各項を見ます。
まず、原子ハミルトニアンは
電磁場のハミルトニアンは
相互作用ハミルトニアンは
として現れます。
ここで \(g_\omega\) は原子と周波数 \(\omega\) の光子モードとの結合定数です。
これらを足すと、この部分空間での全ハミルトニアン
が現れます。
エネルギーの原点は任意に取れるので、ここでは平均エネルギー
を引きます。
すると
と書けます。
ここで \(\delta_\omega=(E_e-E_g)/\hbar-\omega\) です。
この \(\delta_\omega\) は、原子の準位差から決まる角周波数と、見ている光子モードの角周波数 \(\omega\) のずれを表しています。
確率を計算する
それでは実際に遷移確率を計算します。
次の行列を定義します。
すると
なので、時間発展は
と書けます。
ここで
が成り立ちます。
したがって
と置けば、
と厳密に計算できます。
これは二次元系でよく出てくる形です。
行列 \(K_\omega\) の二乗が単位行列に比例するため、指数関数が三角関数に落ちています。
したがって、初期状態 \(|e,0\rangle\) を時間発展させると、
となります。
ここで、上で定義した光子側の測定確率を使うと、
周波数のピーク
遷移確率には \(\sin^2\) の振動部分がありますが、\(\omega\) 依存性の大まかな包絡線は
で与えられます。
したがってピーク条件は \(\delta_\omega=0\)、つまり
がピークを与える周波数になります。
これが分光実験によってエネルギー準位差が測定できる理由です。
光子検出後の測定後状態
いよいよクライマックスです。
測定後状態は、射影仮説の記事や量子テレポーテーションの記事と同じように、条件付き確率から決定します。
放出された光子が検出されたのと同時に原子系で任意物理量を仮想的に測定することを考えます。
この任意物理量のPVMを \(P_a\) と書きます。
すると、光子検出後の原子系の条件付き確率は
となります。
従って、ボルンの確率規則を逆に用いると、原子の状態は
という測定後状態に遷移することが分かります。
これが原子の励起状態が基底状態に離散的に遷移することの測定理論による説明です。
連続的な\(|\Psi(T)\rangle\)の時間発展では出てこなかった離散的な遷移は、
この条件付き確率への乗り換えによって純粋に確率論的に現れるということが確認できました。